ポリウォーター事件 【続・科学者と良心】(山下教授)
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ポリウォーターとは、1966年にソ連のボリス・デリャーギンによって発見・報告された「特殊な水」です。デリャーギンは水をキャピラリー(細管)に通すことにより通常とは異なる性質をもつ水ができると報告したのです。たとえば、水をキャピラリーに通すだけで融点は −30℃、沸点は 400 ℃ にも達し、粘性や膨張率も通常の水とは大きく異なることを「発見」したのです。この発見は後に本人が測定上の誤りであったことに気づき論文を撤回するのですが、ともあれ、その「発見」とともに世界に異常なフィーバーが始まりました。世界中の研究者から肯定的意見、批判的意見の議論が始まり、次々とデリャーギンの実験の「追試に成功」した報告がなされたのです。
そもそも測定の誤りであったはずの現象に対して、なぜ多くの科学者が追試に成功したのでしょうか?
化学的には、水はH2Oで表される構造を持ち互いに水素結合をしていることはご存知でしょう。当時、異常な性質をもつ水は普通の水よりも強い水素結合によって水分子が重合していると考えられたことからポリウォーターと呼ばれました。理論計算によりポリウォーターは普通の水よりも安定であるとの報告もなされたため、もし水に何らかの刺激を与えポリウォーター化することができれば、安価な新しい高分子材料となるとも期待されました。それは従来のプラスチックに代わる夢のような材料の発見であったわけです。デリャーギンはそのきっかけをつかんだだけですから、もし自分がより具体的な発見をすれば、ノーベル賞にも値し(「ナイロンの発見」を参照)、またビジネスとしても大変魅力であり、異常な先陣争いが始まったわけです。
追試の成功の報告や新たな理論的解明の報告と並行して、数々の否定的な報告もなされています。また、ポリウォーターが本来普通の水より安定であるならば、地球上の水が何等かの刺激によってポリウォーター化する可能性があり、生命が絶滅することも危惧されました。結局、デリャーギン自身によって、ポリウォーターは水分子の重合ではなく、キャピラリーを通すときに水に不純物が溶け込んだためであると結論され、ポリウォーターの存在は完全に否定されました。
本来存在するはずのないポリウォーターを多くの研究者が「発見」したのは、単に技術的な未熟さだけではなく、発見の先にある大きな利益に目がくらみ、科学者が本来持つべき冷静な判断を失ってしまったからです。
通常、発見が革新的であればあるほど、科学者はより慎重になりその検証に時間とエネルギーを割きます。しかし、科学の世界にフィーバーが起こり、研究が真理の探究から他人との競争に陥ると、人より先に発見をしなければならないとの焦りが生じ、見えないものが見えたり、見えないものを見たことにしてしまうなど、科学を過ちと捏造へと導くことになるのです。
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