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理系の日本語:「が」の使用をやめると、文章から曖昧さを排除できる。(片桐教授)

| 投稿者: tut_staff

 私は前職、「技術表現法」という講義を受け持っていた。最近の日本語で書かれたレポートの質の低下に急遽2013年から開講された講義であった。日本語教育、特に理系の日本語教育はどこの大学でも大きな課題になっている。また、それ以前、1995年から化学英語という講義も担当した。以下は、これらの経験を元にした「意見」である。

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 日本語は英語などの西洋言語と異なる。結論から言えば、英語は「事実」を述べるのに適した言語であり、日本語は「意見」を述べるのに適した言語である、と私個人は思っている。例えば、道端の穴によそ見をして落ちそうな人を見つけたとき、日本語では「危ない!」と自分の意見をもって注意を促し、英語では「Watch out!」と具体的に取るべき行動を指示する。英語では、主語の明示や時制などにより、事実と意見は完全に区別される。一方、日本では主語を必ずしも明示しないために、自分の意見をあたかも事実であるかのように記述できると思われる。

 中学校高等学校の英文法というと、単語の正しい並べ方を教育する。そのような英文法の試験問題は正解をもつ。これは、英語は「ルールさえ守れば万人に使うことのできる言語である」ことを示している。そして、単語を少し聞き落としても、そのルールの縛りは聞き取れなかった部分の補完を容易にする。このような「言語としての易しさ」ゆえに、英語は国際語としての地位を獲得した。一方、日本語は,それに比べて「主語は誰か」などの暗黙の了解事項を多くもつために、必ずしも万人向けとは言えない。

 なぜ、このような違いを生じたのかについては諸説ある。
その一つの説は「立ち止まって考える時間的余裕の有無」を理由としている。つまり、英語のような狩猟民族の言語は、指示はそれ自身で耳から脊髄反射的(これはたとえである)にアクションへつなげる必要をもつ、そのため、誤解を生じさせる余地を排除しなければならないというものである。一方、日本語のような農耕民族の言語は指示を受けたときに、いちどアクションを中止し、その意図を理解する時間的余裕を持つため、誤解の余地を排除する必然性をもたないというものである。確かに、日本語は漢語由来の同音異義語を多くもち、文の理解にはその文の内容把握のための高度な頭脳の働きを必要とする。

 とは言うものの、これは、日本語は聞く側に必ずしも易しい言語ではないことを示している。理系向けの、聞く側に配慮したわかり易い日本語を書くためにはどうしたら良いのであろうか。

 そのこつの一つとして、「が」を使用しない、という規則を紹介したい。そもそも「が」は「てにをは」に含まれない。「が」は元々は接続詞である。しかも順接の接続と逆接の接続の2つの意味を持つため、文章を曖昧にする。だから、主語を示すつもりで使用する「が」を排除すると、文中の単語の位置づけは明確になる。さらに、接続詞の「が」の使用も避ければ、文と文のつながりと関係の曖昧さは排除される。気がついただろうか、この文章では、ここまで「が」を使用していない。

 しかし、「が」を使用すると、文章は硬くなり、曖昧さを失うために共感しにくくなる。そのようなメリットとデメリットまでを理解した上で、文章を書くことは、難しい作業である。「私はあなたを好きだ」はいかにも平板で硬い。「私はあなたが好きだ」ではより強くアピールする。「あなたが好きだ」なら主体は「私」と限定できる。しかし、「あなたを好きだ」というと、「誰が?」と聞きたくなる。だから「が」を使わずに日本語の文章を書くと、英語に訳し易い文章になる。

 相手の共感を得ることよりも、事実を正しく伝えることを目的とする理系の文章、特にレポートなどでは,できるだけ「が」の使用を避けるとよい。

片桐 利真

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