このシリーズでは、片桐の担当している有機化学1の講義のポイントを読み物にして、解説して行きます。
Pure SN2反応は、極めてまれです。多くのSN2型反応では反応の過程で、完全なWalden反転が起こらずに、若干のラセミ化を起こします。つまり、完全なWalden反転を経て進むSN2反応はPure SN2反応と見なせます。そのようなPure SN2反応をおこすためにはどうすれば良いでしょうか。
以下は、片桐の研究です。
前のブログで述べたように、Pure SN2でなくなる要因は、反応中心炭素上の陽電荷の発生です。ですから、反応中心炭素上の陽電荷を不安定化してやればよいわけです。そこで、反応中心の炭素に強い電子求引性基であるトリフルオロメチル基を配した求核置換反応はSN2機構で進むと考えられます。
しかし、このトリフルオロメチル基近傍の求核置換反応は「困難反応」と呼ばれていました[N. Shinohara, T. Yamazaki, T. Kitazume, Rev. Heteroatom Chem. 1996, 14, 165.]。片桐がまだフッ素化学の初学者の頃に、この反応の可能性を当時の大家の先生に尋ねたところ、「まあ、やってご覧(無理だから)。うまくできたらほめてあげるよ」と闘志をかき立てるようなコメントをいただきました。
先行研究を詳細に調べてみると、確かに成功例は全くといっても良いほどにありませんでした。成功例の多くはトリフルオロメチル基の他に、ヘテロ原子や共役系を配して、カチオンの安定化を行ったものでした。このトリフルオロメチル基の近傍でのSN2型反応が困難な理由は、このトリフルオロメチル基の立体障害でした。トリフルオロメチル基上のフッ素は強い電子求引効果により陰電荷をもち、その陰電荷と求核剤の陰電荷の間の静電反発がこの反応を困難にしていました。通常立体障害と呼ばれる反発は、1/r12の短距離力です。しかし、静電反発は1/rの長距離力です。ですから、このトリフルオロメチル基の周りには求核剤はまったくちかよることができません。