書評 ハル・クレメント著「窒素固定世界」(江頭教授)
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ハル・クレメント著 小隅黎訳 「窒素固定世界」 東京創元社 (1980)
もとの英語のタイトルはそのものズバリ「The Nitrogen Fix(窒素固定)」です。窒素固定と言えば窒素と水素を反応させてアンモニアを製造するプロセス、つまりハーバー・ボッシュ法のことですが、このSF小説の中では別の物質を窒素と反応させる触媒(正確には酵素のようなもの)が開発されたことになっています。つまり、窒素と酸素から窒素酸化物が生成される、というのです。我々の知っている化学工学的なプロセスとは異なり、非常に進化したバイオテクノロジーによって改造された植物が空気中の酸素と窒素から硝酸イオンを製造する能力を獲得する。この技術によって窒素肥料を必要としない理想的な農業が行える、はずだったのですが...。
そこはSF小説ですから当然、大変なことになります。窒素固定植物は大繁殖し大気中の酸素がすべて窒素と結合した結果、大気から酸素は消失。窒素と窒素酸化物の大気となります。もちろん人間や動物は呼吸できません。窒素酸化物から生じた硝酸が海に溶け込むことで海の水は酸性になってしまいます。人間以外のすべての動物は死滅し、植物は窒素固定植物に入れ替わります。硝酸塩を含んだ窒素固定植物の一部にはニトロ化合物が蓄積し自然の爆弾となっている、そんな地獄よりも恐ろしい世界が出現して2000年後の世界がこの小説の舞台となっています。
文明を失いつつも、高度なバイオテクノロジーによって生活に必要な物資を生産する疑似植物を生み出した人類の子孫たちは閉鎖された空間で酸素を発生させる植物を育てながらなんとか生き残っていました。そこに外宇宙から高度な知性をもった生物が到来します。彼ら(というほど人間的ではありません)とコンタクトすることで、宇宙に多数存在する地球型の惑星の大気は例外なく窒素と窒素酸化物の大気に移行することが知られていて、その原因は金原子を核とする酵素をもった植物の発生による、という知識がもたらされます。自然な状態では金山の鉱脈に金属状態で孤立して存在する金原子が、知的生物の出現と工業の発展によって生態系に拡散、それを利用する植物が発生し窒素と酸素を結合させる能力をもつ、それこそが大気の変化の真の原因だ、ということを示唆してこの小説は終わっています。
さてさて、これは本当に「化学」を中心としたSF小説です。窒素固定のプロセスが少し異なっているだけでここまで大きな変化が起こりうる、という壮大な思考実験で、そのスケールに息をのみます(空気に酸素があるっていいなぁ)。さらに酸素と窒素を結合させる植物が常温常圧で反応を起こさせ、自己再生能力によって爆発的に増える、というバイオテクノロジー的な特徴も話を大きくする役割をはたしています。
さて、通常ならここで「皆さんにもご一読をおすすめします。」と言って締めるところなのですが、実のところこの小説、アイデアは壮大なのですが物語内で起こる話はこじんまりとしていてあんまり面白くありません。登場人物にも共感しにくく(これは現在と違った環境で育った人間をリアルに描いているのでしょうが)読むには覚悟のいる作品だ、という点だけは指摘させてください。
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