「安全工学」の講義 第5回安全対策のたてかた(1) ゼロ・リスク幻想の危険性(片桐教授)
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2年生の選択必修の講義「安全工学」の担当の片桐です。
このブログのシリーズでは、安全工学という講義の中でお話しした内容について、片桐の個人的な意見を述べていきます。
安全対策と気軽に言っても、満載の問題に対して一気に対策を立てられるわけではありません。やはり危険(リスク)の大きな問題から順番に対策するべきでしょう。以前のブログ(「安全工学」の講義 第4回安全の心理から(2) 安全と安心は違う)でも述べましたが、「危険」は「危険の確率」×「被害の大きさ」で定量化できる、科学的に取り扱うことのできる概念です。したがって、複数の危険の大きさを客観的に比較できます。しかし、人間は弱い生き物で、ほんとうにやるべき対策を後回しにすることがあります。簡単に対策ができる問題を優先して行う場合が散見されます。これは、「いずれゼロ・リスクを達成しなければならないのだから、小さなこといずれ対策しなければならないから」という脅迫観念により正当化されます。
もちろん、全ての問題を解決し、「ゼロ・リスク」を達成することは理想的です。しかし、「ゼロ・リスク」は達成不可能な目標です。我々は、リスクを小さくすることはできても、それを全くなくすことはできません。特に、新しい科学技術や機器、器具には開発者の想定外のリスクがあると考えなければなりません。また、汎用性の高い器具には必ずリスクがあります。我々には、肉は切れるけど指は切れない「ゼロ・リスクの包丁」を作れません。
ゼロ・リスクはあたかも達成可能な目標に見せることで人を惑わす幻想です。これを標榜することは、リスクの隠蔽につながります。問題を真正面から直視することを妨げます。ゼロ・リスク幻想は危険から目を逸らせる「存在しない危険は考えなくてよい」と思い込ませることにもつながります。
社会はゼロ・リスクを求めます。社会は事故の起きない状態しか安全とは認めません。少しでも事故の可能性のあるものは、危険なものと認知され、排除します。さらに、日本の法律は社会的要請により作られているため、事故は起きてはいけないとしています。そこで、技術者・科学者が「ゼロ・リスクを目指し」ます。それを聞いた社会は「ゼロ・リスクは達成可能な目標」と誤解してしまいます。そのような状況で正直にリスクを示してしまうと、ゼロ・リスクではないことが責められ排除されてしまいます。正直にリスクを認めた技術は「危険な技術」として淘汰されてしまいます。一方、危険を無視した技術は(事故の発生までは)「安全な技術」と誤解されます。まさに「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則が安全の世界にも成立します。
特に大学の研究は「非定常作業」の最たるものです。ゼロ・リスクなわけがありません。研究で使用する汎用の実験機器に過剰な安全装置をつけると、その使用法を制限します。そのため、実験機器には「最低限」の安全装置しかついていません。だからこそ、「多重的」より「多面的」な安全対策を必須とします。つまり、事故の防止だけでなく被害の最小化対策を考えなければなりません。事故が起こることを前提に対策を立てるべきです。
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