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映画「ソイレント・グリーン」の描くディストピア(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

 映画「ソイレント・グリーン」は1973年に公開されたアメリカの映画です。

 舞台は2022年のニューヨーク市。人口は4000万に膨れあがり、食料をはじめ多くの物資が不足するこの大都市で、巨大企業ソイレント社が新たに開発した高エネルギー食料、それが「ソイレント・グリーン」でした。しかし、その「ソイレント・グリーン」には恐るべき秘密が隠されていて、主人公の刑事(チャールストン・ヘストン)はソイレント社の役員の殺人事件を追ううちにその秘密を知ることになる、という筋立てです。

 ここではソイレント・グリーンの秘密についてのネタバレはなしにしましょう。今回は、この物語の背景である荒廃した未来のニューヨーク市でイメージされているディストピア(ユートピアの反対。悲惨な未来。)について考えてみたいと思います。

 本作の大きな見所の一つは配給される「ソイレント・グリーン」を手に入れようと集まった群衆に対して、十分な量の「ソイレント・グリーン」が配給できなかったことによって起こる暴動騒ぎのシーンです。主人公たち警察は最初は暴徒に圧倒されますが、やがて到着した暴動鎮圧部隊の特殊車両(トラックにパワーショベルが取り付けられたもの)が暴徒を根こそぎにしていきます。十分な食料を得ることができないうえに、まるで物のように扱われる人々の姿、これが悲惨な未来として描かれています。

 その一方で贅沢なマンションで暮らす一部の特権階級の姿も描かれています。ただし、彼らが嗜む贅沢品も、萎びたセロリに矮小なリンゴ、そして一切れの牛肉に過ぎません。それでも家もなく、アパートの番人(銃を持っています)のお目こぼしで出入り口の階段に折り重なるようにして寝泊まりしている貧民たちと、その生活は雲泥の差です。ここで描かれているのは物資不足のうえに、極端な貧富の差のある世界なのです。

 さて、私がこの映画を見たのはテレビ放送なので公開の数年後、おそらく高校生ぐらいのころだったと思います。今回、DVDで見直してみたのですが、このディストピアの描かれ方が、高校時代とは違って見えるようになっていました。

Photo

 本作の公開が1973年なので、1972年刊行の「成長の限界」(詳しくはこちらを)はすでに世にでていた時期です。本作の背景は「成長の限界」の予測の一つ、人類の危機、つまり

(1)世界人口、工業化、汚染、食料生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来るべき100年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は人口と工業力のかなり突然の、制御不可能な減少であろう。

を映像化したものだと思っていました。ですから、この作品世界の悲惨さの根源は「物資・食料の不足」という問題だと考えていたのです。

 しかし、今見返してみると、この作品が訴えている悲惨さの多くの部分が「極端な貧富の格差」や「巨大企業による独占」などの社会の問題であるように見えるのです。いや、昔からそのような問題には気づいていたのですが、それらは「物資・食料の不足」描写のおまけ、いえ、もっとはっきり言えば制作者が「物資・食料の不足」という問題を描写しきれずに脇道にそれているのだ、という風に考えていました。

 これは、「不足」が「格差」や「独占」よりも本質的な危機である、というの考えが昔の自分の中にあったからだと思います。しかし、本作の制作者には「格差」や「独占」も人を不幸にするものとして、同様の深刻さが感じられたのでしょう。

 確かに、「不足」「格差」「独占」はみな社会の悲惨さの現れです。ですが、「格差」や「独占」は社会の構造の問題で、大きな意味では人間が自分たちで決めていることです。一方、「不足」の問題は人間と環境(あるいは自然)との間での問題で、この解決には工学が必ず必要となるのです。その意味で「不足」はやはり本質的な危機であると私は考えています。「格差」や「独占」に憤る人の考えも分かるようにはなりましたが、ただ、「不足」が解消された世界でなら、おそらくずっとたやすく「格差」や「独占」をなくすことができるのではないかと思うのです。

江頭 靖幸

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