2017年11月1日のブログで、私の研究室での英語教育の一端を紹介しました。理系の英語教育については一言持っていますので、これをシリーズ化しようかと思います。
さて、私、片桐利真は「帰国子女」でした。小学校の6年の夏から中学校1年の夏まで丸1年間、アメリカ合衆国インディアナ州ブルミントンという人口3万ほどの大学と採石を主な産業とする町にあるインディアナ大学付属中学校に通いました。父親の仕事の都合で、一家そろってそれにくっついていきました。
当時は、小学校での英語教育はま〜ったく行われておらず、ABCもほとんどわからない状態で現地の小学校にいきなり放り込まれました。もちろん、いきなりとはいっても、1年〜半年の猶予期間はあったので、NHKラジオの基礎英語(当時はⅠもⅡもⅢもなく1つだけでした)、ラジオ英語会話などで、少しは準備しましたが、そんな付け焼き刃が役立つわけもなく、現地の中学校の講義はもちろん全て英語で…落ちこぼれました。唯一、数学だけは2学年skipしましたが他の科目はほぼ全てslipしたのは、やむをえないことでしょう。
幸いに大学付属中だったため、同じような境遇の学生もおり、特に台湾、韓国からの子女とは漢字を使った筆談がかろうじて可能でした。そして、現地で生の英語に長期間接したのは、大きな収穫だったかもしれません。しかし、英語は嫌いになりました。
その後、中学高校は悲惨でした、帰国子女のラベルを貼られ、しかし、英語嫌いという、どんなラノベのシチュエーションでしょうか。しかも、インディアナなまりは日本の英語教育の発音スタンダードからは大きく外れていました。ますます英語嫌いになりました。
大学の教養では文学部の先生の「nursery rymth(わらべ歌)」でマザーグースをテキストにした講義を受けました。期末試験はマザーグースの中から2曲選んで歌うというものでした。この講義からはいろいろな発見がありました。
今から25年ほど前、上司に勧められ、数ヶ月間毎週会社の「テクニカルライティング講座」を受ける機会を得ました。この講義が、私の英語に向き合う姿勢の転機でした。
講師は中牧先生と言われる方で、工業英検の日本工業英語協会の設立中心メンバーの方でした。講義そのものは日本語文を英訳し、その添削指導を受けるというものでした。この講義の後の雑談で、理系英語の学び方について、多くのことを学びました。