「成長の限界」の限界(江頭教授)
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「成長の限界」は1972年に出版された本です(詳しくはこちらを)。人口増加による環境汚染と資源の枯渇によって人類の文明が崩壊することを、当時の最新技術であるコンピュータシミュレーションによって予測したもので、「サステイナブル」という言葉を現在使われる様な意味で使った最初の書物です。
未来予測の本ですが、今から46年前の予測です。ならば現時点でその予測を検証できるはずでは、そう考えるのは当然なのですが「成長の限界」ほど世界に影響を与えた本であれば単純に当たった、外れた、と言えるものではありません。「成長の限界」の与えたインパクトによって大なり小なり世界は変わったのですから、シミュレーションの対象自体が変化してしまったと言えるでしょう。
一番はっきりしているのは「成長の限界」が予測している「人類の文明の崩壊」が起こってはいない、ということでしょう。そうなれば気になるのは「成長の限界」の予測は正しくて崩壊がこれから起こるのか、それとも「成長の限界」の予測は外れて人類の文明は崩壊を免れたのか、というところです。
まず、世界の人口は増加を続けていて「成長の限界」の予測は当たっている様に見えます。でも「日本の常識は世界の非常識」、日本の人口は減少し始めています。ということは日本については「成長の限界」が外れた、といえるのでしょうか。
「成長の限界」で行われているシミュレーションでは世界を一つのものと考えています。すべての人が同じ量の資源を消費し、同じ量の廃棄物を出す、と考えているのです。現在の状況、つまり世界では人口がふえているのに日本では人口が減っている、という状況は「成長の限界」のシミュレーションでは、そもそも表現すること自体ができません。これがこのシミュレーションの限界、「成長の限界」の限界なのです。
世界を一つのものとして考えていること。つまり国別、大陸別、あるいは先進国と発展途上国(当時ならもっとはっきりと後進国と言ったでしょう)に分けて扱っていないこと、は「成長の限界」で示されたシミュレーションが行われた当時の技術的な限界を考えると無理のないことだと思います。しかし、この扱いは実は「世界の人々が平等である」という仮定を暗黙のうちに導入しているのではないでしょうか。
「成長の限界」では、人類の文明が崩壊するときは等しく全世界の文明が崩壊することを想定しているのですが、実際はどうなるのでしょうか。そんなにも人類の文明は平等主義的なものなのでしょうか。
そう考えると「成長の限界」は一見、悲観的な未来予想ではありますが、人類のもつ人間性に対して非常に楽観的な見方を前提とした書物だ、と言えるかも知れません。
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