「知価」と「バブル」(江頭教授)
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前回のブログで堺屋太一氏の著作「知価革命」を紹介しました。これは、知価とは知恵の値打ち、という意味であり、資源やエネルギーの有限性を感じ取った先進国の社会では知価を中心とした社会に劇的な変換が起こるだろう、と予測した書物です。
さて、知価とは具体的にどのようなものなのでしょうか。この本が書かれた1985年ごろから話題になったのが「バブル景気」ですが、このバブル景気こそが「知価革命」だったのでしょうか。今回は「知価」と「バブル」の関係について考えてみたいと思います。
まず、「知価」と「バブル」の類似点について考えて見ましょう。
「知価」はかっこよさや使い勝手の良さなどデザインや設計という知恵によってモノやサービスに付加された価値のことです。モノの原料となる資源やサービスで消費されるエネルギーの量とはほぼ無関係に決まる価値であり、資源・エネルギーの限界を超えて経済が成長することを可能にします。
「バブル」も資源やエネルギーと無関係に価格が上昇する現象です。バブルの対象になるのはモノやサービスなどの本来の価値ではありません。何かの切っ掛けで「将来値上がりするかも知れない」と期待して「今のうちに購入しておこう」と考える人が一定数を超えると実際に価格が上がる。それを見た他の人も「もっと値上がりする」と期待するのでさらに購入量が増える、というサイクルがくり返されて泡(バルブ)が膨れ上がる様に価格が上昇するのです。資源やエネルギーに支えられた本来の価値(ファンダメンタルズと呼ばれます)と比べて不釣り合いな価格がつくのですが、これが大きな規模で起これば経済全体が資源・エネルギーの限界を超えて成長することになります。
さて、「知価」も「バブル」も、どちらも資源やエネルギーの限界を超えた成長を実現させることができます。では、両者の違いについて考えてみたいと思います。
「知価」も「バブル」も資源やエネルギーという客観的な基準できまる価値ではありません。人間の主観によって決まる価値なのです。ただし、「知価」においては「私はこれが使いやすい」とか「僕らの間ではこれが今人気なんだ」というような自分あるいは自分達の主観によって価値を決めています。その一方で「バブル」による価格上昇は「(自分は欲しくないけれど)他の人たちが欲しがるに違いない」という他人の主観に対する期待(という主観)に基づいています。
どちらも主観に基づいた価値なのですが「知価」にはその価値を本当に評価している人間がいます。もちろん、主観的な評価なので気持ちが変わって評価しなくなることもあるでしょう。しかし、その変化も個々人の主観なので社会全体でみれば急激に変化することは希だと期待できます。
しかし「バブル」における評価は他人の評価に対する予想に基づいていますが、その他人の評価もまた、他人の評価に基づいたものです。何かの切っ掛けで過大に評価されていると考えられると、その考えも伝搬して全ての価値が一気に失われてしまいます。これが「バブルの崩壊」という現象です。
こう考えると「バブル景気」は「知価革命」で予想された新しい社会とは似て非なるものだったのだろうと思われます。とはいえ、バブル崩壊からすでに20年以上、日本の社会では「知価革命」がかなり進行していると私は思えます。
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