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書評「純粋人工知能批判」(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

 本日紹介したいのは人工知能(AI)に徹底的に批判している本です。

H.L.Dreyfus, S.E.Dreyfus著 椋田直子訳「純粋人工知能批判」(アスキー出版 1987)

まず、出版年が1987年だ、ということに注目してください。これ、実は今から30年前の本なのです。

 人工知能(AI)は今盛んに話題になっていてある意味ブーム到来、という状況なのですが、この本が書かれたころも同様にAIブームでした。そうです、AIのブームは今回が初めてではないのです。

 本書に引用されたハーバート・サイモン博士の言葉

今後20年のうちに、人間にできることはすべて、機械にもできるようになるだろう。

これが1965年のこと。本書が出版された1987年にも人間にできて機械にできないことはたくさんありました。それから30年経った今でも人間にできることがすべて機械にもできるようになる気配はありません。

 本書は人工知能の研究者達の異常なまでに楽観的な物言いを強く批判しています。そのような楽観論が機械(コンピュータ)についての理解よりは人間の知性に対する無理解、というか見くびりに原因があるのでないかという立場から、人間の知性についての深い考察をすすめています。

 本書の予言どおり、当時主流だった人工知能の研究は無謀な空約束をくり返したあげく、大きな成果をあげることなく退潮してしまいました。

 では、現在のAIブームはどうでしょうか。本書の批判は現在でも有効なのでしょうか。それとも本書の批判に答えられたからこそAIブームが再燃しているのでしょうか。

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 まず、本書が批判している「人工知能」は「推論機械」と呼ばれるものだと言うことに注意しましょう。人間が行動するときに従っているルール、あるいは規則を書き下し、そのルールに基づいた推論(「AならばB、BならばC、だからAはC」云々)を機械的に行うことで人間の行動を再現できる。人間の知能とは基本的にはこの推論のことなのだ、というのが当時の人工知能研究の考え方です。

 人間の学習過程をみると、ビギナーは規則に従ってことに当たっていますがこの状態では例外的な状況には対応できません。しかし、次第に習熟度が上がりエキスパートの域に達するころには、いろいろな例外状況にも対応できるようになります。この例外への対応は例外規則という新しい規則を覚えたことによって可能になるのではありません。過去に例外的な状況に対応した経験から、新たな例外状況と経験済みの例外状況との類似性を無意識に認識する(というか類似した例外状況を自然に思い出す)ことによって適切な対応策も見いだすことができるのです。結局、どんなに例外規則を増やしても、「推論機械」としての人工知能は決して人間のエキスパートの域に達することはできない、というのが本書の主張です。

 現在のAI研究の主流はすでに「推論機械」ではありません。従って「人間のエキスパートに行動規則を聞き出す」といった手順は不要になっています。現在のAIは人間の決断した結果、行動の結果、を大量に集めたもの(ビッグデータですね)を処理することで人間と同様の判断が下せるようになる、というものです。この基本的な考え方は人間の脳の神経の構造を模擬したもの(ニューラルネットワーク)からスタートしました。実は本書ではこのニューラルネットワークの初期の研究が紹介されていて、規則を必要としない、という意味で有望だと述べられています。

 その意味では今回のAIブームは本書に批判を乗り越えた結果である、と言えるでしょう。

 ただ、本書で強調されている「例外的な状況への対応」という面での限界は現在のAI技術にも変わらずに残っているのではないかと思います。AIが扱えるのはビッグデータとして整理された「状況」で、私たち人間が感じる状況とくらべると明らかに限定された情報しかないのです。AIの発達により人間よりコンピュータの方が上手にできることが増えたのは事実ですが「人間にできることすべて」にはほど遠いのではないでしょうか。

 

江頭 靖幸

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