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核戦争を描いた映画「ザ・デイ・アフター」(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

  持続可能な世界を目指すサステイナブル工学の背景にはこの文明がサステイナブルではない、つまり人類が滅亡するかも知れない、という概念があり、その一番リアルな恐怖は全面核戦争ではないか。ということで核戦争を描いた映画を紹介しています。

 今回紹介する「ザ・デイ・アフター」は1983年、アメリカの映画ですが、実はテレビ放送用の作品です。核戦争が実際に起こり核爆弾が投下されるとどうなるのか、を正面から描いた作品で、以前紹介した核戦争を描いた作品が踏み込まなかった「その日の後」に踏み込み、核戦争の悲惨さを力強く印象付けよう、という製作者の意思が感じられます。

 以前紹介した「博士の異常な愛情」では核戦争が起こることは世界の終末を意味している、したがって核戦争が脅威であることは自明である、という前提で映画が作られているように思われます。「世界大戦争」では東京を破壊して見せることで「核戦争がなぜいけないのか」を可視化していました。「渚にて」での核戦争の描写はやや変化球ですが個々人の問題としての死、家族や近しい人々の死、そして人類の死滅という、自身が生きた意味が完全に失われてしまう状況を描写し、その悲惨さこそが核の脅威の本質であると訴えています。

 それに対して本作では核戦争を生き延びた人々がみることになる現実を描写して核の脅威を示そうとしている点で大きく異なっているのです。

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 とはいえ原爆投下直後の広島の映像を見ている身としては、この映画の描写を見ても「アメリカってやっぱり余裕があるなー」ぐらいの感想になってしまいます。そも「アフター」とある段階で生き残る気満々でしょう。核爆発による被害の痛さ、苦しさ、悲惨さのようなものがほとんど感じられず、すこし大きな台風が来たのかな、くらいの感じにしか見えません。これは爆心地は消失しているので「アフター」で描かれるべき人がいない、だから爆心地からはなれた比較的被害の軽い地区が物語の中心にならざるを得ないという事情もあるのでしょう。実際、ラストシーン近くに映し出される爆心地は一面の廃墟です。ただ、何か乾いた感触で恐怖を感じる風景ではありません。

 臨時の救護所となった体育館の床全面に横たわっている病人たちの描写も、普通の人が横たわっているのとさして変わらない見た目になっています。放射線障害によって髪の毛が抜けた人、核爆発の閃光をみて目が見えなくなった少年の描写もありますが、個々の傷病以外は割と元気がよさそうも見えました。予算の関係もあるのでしょうか、どうも全体に作りもじみているのです。

 核兵器が使われたらこんなに悲惨な事態になる、という警告としてこの作品は作られたのだろうと思います。しかし、この警告はせいぜい「シェルターにはもっと水を貯蔵しておこうかな」という教訓に回収されてしまいそうだ、そのように私は感じたのでした。

江頭 靖幸

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