助けられるべきは誰か ―再びMDGsとSDGsの違いについて―(江頭教授)
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MDGsとSDGsについてはこちらの記事でも紹介しています。SDGsはMDGsの後継ですが、MDGsとはやや異なっている。その顕著な例が貧困の撲滅について。
どちらも貧困な人を助けよう、という内容です。(「貧困」を撲滅するのであって、「貧困な人」を撲滅するわけではありません!)MDGsでの貧困な人の定義は具体的で
1日1.25ドル未満で生活する人
という意味でした。それに対してSDGsでは貧困に世界共通の定義をすることをやめていて、
あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困
に終止符を打つ、という表現になっています。
MDGsの定義では一部の発展途上国に限った目標となってしまい、先進国の市民には無関係な目標になってしまいますから、SDGsの定義は世界のどの国の人に対しても適用される目標となるわけです。
とは言うものの、SDGsにおけるこの定義の導入、私には大きな問題をはらんでいるように思えるのですが、今回はその点を説明したいと思います。
まず、MDGsの定義は具体的であり、1日1.25ドル未満で生活しなくてはならない人は文字通り生活に支障を来していると考えられます。(なお、この1.25ドルは現地の物価で調整した値のことです。物価が安いからこれでも満足なはず、とは言えません。)かなり直接的な生命の危機なのですから、この様な人を助けるという話に反対する人は少ないのではないでしょうか。つまり、MDGsでの貧困の定義は世界のほとんどの人が合意できる基準であり、誰もがこのような人を助けることに異論はない。これは世界で共通に受け入れられる貧困の定義です。
これに対してSDGsでの貧困は具体的に定義されていません。「あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困」という表現は各国が貧困を独自に定義することを意味しています。それぞれの国が独自に定義するということは言い換えれば世界で共通の一つの定義をすることを諦めたということなのでしょう。
例えばどこかの国で1億円の予算枠があったとします。この予算を「貧困の撲滅」のために使おう、と考えたとき「1日1.25ドル未満で生活する他国の人」を助けるために使おう、という意見には説得力があると感じるのです。なぜならその人は命の危機に瀕しているのであって、助けなければ高い確率で死んでしまうのですから。人の命を助けることには普遍的な価値があるはずです。
一方で、その1億円を「自国で定義した貧困に当てはまる自国の人間」を救うことした場合には、その貧困の定義について、当然いろいろな議論が起こると思います。さらに進んで1億円を「他国が定義した貧困に当てはまる他国の人間」を救うために使う、と言われたらどうでしょうか。具体的にその貧困の定義がどのようなものか、それを確認せずに無条件に賛成できるひとはそれほど多くはないと思います。
MDGsの貧困は世界共通の定義ですが、その意味での貧困の撲滅は先進国の一般市民には無関係な目標となってしまう。だからSDGsでは貧困の世界共通の定義をやめた。なるほど、それは良いのですが、ではそれは国連の掲げる目標として相応しいのでしょうか。それぞれの国でそれぞれに貧困を定義するなら、貧困対策はそれぞれの国が行えば良いことです。そこに国連が介入する必要があるとは、私には思えないのです。
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