当事者と第三者 情報公開は「正しい」ことだろうか?(片桐教授)
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昨年、NHKで「自宅で死を迎えること」についての報道がありました。
自宅での自然な穏やかな死を迎えることを希望していたおばあさんが家で倒れたときに、それを見た家族が動転して慌てて救急車を呼んだところ、本人の希望していない蘇生を施され病院へ搬送されそうになった事例です。このケースではかかりつけのお医者様が間に合い、自宅でお見送りをできたそうです。
(https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1002.html)
本人は希望していないとしても、救急隊員の立場では蘇生処置をして病院に運ぶ社会的道義的「義務」があります。しかし、それは本人と家族の立場には、望まないものです。
さて、このとき、そのおばあさんの命の選択権は誰にあると考えるべきなのでしょうか。社会でしょうか本人を含めた家族でしょうか。これは倫理の問題です。個人の権利とコンプライアンスの衝突です。
この衝突の原因は何だったのでしょうか?。なぜ、このような衝突が起きてしまったんでしょうか。
いろいろな学会の倫理規定は「情報の公開」を明示しています。しかし、情報公開は常に最善の選択ではありません。これは講義「安全工学」で取り上げたシティコープビルの事例から示されます(ブログ2016.7.15)。
救急搬送のケースにおいて、このようなコンプライアンスと本人の希望の葛藤を生じさせたものは、家族による救急通報という「情報の公開」ではないでしょうか。本人と家族とかかりつけのお医者様の間でことをおさめれば、何の問題もなく、本人の希望する静かな最後を迎えられたでしょう。
私はむかし、危機管理のまねごとを行なっていました。
その経験から、情報を公開することは正義であっても絶対的な善ではなく、利も損もある両刃の刃と思います。だから、その扱いは慎重であるべきです。大きな損失を防げる場合を除き、当事者だけで事をおさめる方が当事者を不幸にしません。それが公開されてしまうと、少なからず社会の混乱を招きます。
そのような当事者でおさめるべき行為を「隠蔽」と称し、それをすっぱ抜く行為を正義のようにふるまう評論家的な第三者もいます。それでも、正しく事実を公開するのなら、その損失は最小限です。利も理もあります。しかし、匿名の許されるSNSの普及は、間違った解釈や誇張により事実をゆがめて広める無責任な行為を助長しています。
ある大学で発生した反応容器の「破裂事故」の事例では、近くにいた学生により「大爆発事故!」とSNSで広められました。そのために、大学側の手続き的な後始末はおおごとになったそうです。破裂と爆発への公的機関の対応は違います。火災につながりかねない爆発事故の場合は、消防署に加えて労働基準監督署の立ち入り調査が行なわれます。その間違ったことばによるフェイクニュースは大学担当者のしごとを無駄に増やしてしまいました。そして、匿名の発信者は間違いを指摘された後に、無責任な匿名のままアカウントを消して逃げました。
法律やコンプライアンスは社会での衝突を解決するための最後の手段であるべきです。当事者間で穏便に済ませられるのなら、それにこした事はありません。当事者ではない第三者が最初からコンプライアンスを持ち出しあるいは公論化する行為を、私は正しいとは思えないのです。もちろん、その場合は当事者の公序良俗に反しない判断や行動を前提とします。
今回のケースのように報道され公論化してしまったら、もはや後には戻れません。我々は「隠蔽」という批判を恐れます。そのため、当事者だけでおさめられなくなります。場合によっては、当事者は批判にさらされます。そして、このような倫理的問題に正解はありません。我々は解の無い問題を考え続けなくてはなりません。
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