阪神淡路大震災から25年(江頭教授)
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阪神淡路大震災は1995年1月17日の早朝、大坂・神戸・淡路島一体をおそった大規模な地震のことです。本日(2020年1月17日)、阪神淡路大震災から25年、四半世紀の月日が流れたことになります。
高校生、大学生の皆さんはまだ生まれる前でしょうか。当然、当時の記憶は無いかと思います。私も当時は東京に住んでいたので、この地震については報道を通じての知識しかありません。
私が最初にこの震災の情報に触れたのは1月17日の早朝、地震が起こったすぐ後のNHKのニュースだったと記憶しています。「大阪で大きな地震があった」という情報で、神戸についての言及はありませんでした。その後「大阪から神戸方面に向かったところ、甚大な被害が出ている様子だった」とつづき、やがて地震による被害の大きさが明らかになっていったのです。
本当に大きな災害の場合、被害の中心地から第一報は届かない。これは後の東日本大震災の時も経験したことで、一般的な現象なのかもしれません。
同様に、被害の総計が次第に増えてゆく、という現象も東日本大震災のケースと共通していました。ニュースとして報道するのは確認された被害の総計ですが、確認作業が手間取るほどの巨大な災害では、次第に増えてゆく被害状況を目にしながら憂鬱な気分をかき立てられることになるのです。
さて、この阪神淡路大震災、日本における災害ボランティアがはじめて本格的に活躍した、という側面は不幸の中でもポジティブな位置づけのできる部分です。
それ以前も、震災に遭った人々がかわいそうだ、という思いは多くの人に共通だったと思います。しかし、その災難から立ち直るのは基本的には本人の努力の問題。場合によっては行政の援助もあり得ますが、それも過剰になって、被災しなかった人と不公平になることは許されない、という考え方が支配的だったと思います。
この考え方自体は現在も受け継がれているのです。行政の援助は公的なものだから平等の原則に縛られる。そうであれば自分自身の手で被災者を支援したい、という気持ちを持つ人が増えてゆき、阪神淡路大震災のタイミングで実際に活動する人々が現れた、ということなのだと思います。
これは、行政という最低限の公共サービスを越えたサービスを実現するために、自分から何かを負担する、という余裕をもった人々が増えた結果だ、と考えることができます。その一方で、地震によって家財産を失ったとき、自力で立ち直ることができない人が増えた、と見ることもできます。
人々の生活がより多くの財によって維持されている社会、人が多くのモノに囲まれて生活していて、それを失ったら自力で再生できない社会。そんな生活を送る人々であればこそ、誰かが震災にあったと聞いたとき、その絶望を実感して、自発的に手助けをしたいと思うのでしょう。
これは端的に言えば「豊かな社会」なのですが、豊かさがある種の弱さに通じていることも垣間見えます。25年間の月日を経て振り返ると、あの震災が豊かな社会の訪れを可視化したようにも思えるのです。
(以上の記事はこちらの記事を一部年数を修正したものです。元の記事は2年前のものですが、内容はほぼそのままでも成り立っていると思いますが、いかがでしょうか。)
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