国産の食品は安全だと信じられる訳(江頭教授)
| 固定リンク 投稿者: tut_staff
のっけから恐縮なのですが今回は出典の分からない話からスタートです。
ずいぶん前の話ですが食の安全に詳しい識者の方が著書だがブログだかでこんな話を書いていました。
イギリスに旅行した時のこと、イギリス人が「私達は安全な国産の食品を食べたいんだ!」と話していた。私はすごく驚いて「狂牛病をはじめとして食の安全についてはかなりお粗末なイギリス人にすら国産信仰があるとは。ナショナリズムおそるべし」と思った。
というのです。このお話、私は少し違和感があるのですが、皆さんはいかがでしょうか。
まず私の身の回り、日本で暮らす日本人の身の回り、をみると「○○には日本産を使用しています」といった日本産の食品に一段上の価値を認める傾向が確かにあると思います。では、これはナショナリズム故なのか。その要素がないとは言いません。でも私達が国産の食品を信頼するのには別の理由、言ってみれば「同じ釜の飯」理論とでも言うべきものがあると思うのです。
私達が食品に感じる不安はその食品の生産者に対する不信であると言い換えても良いでしょう。私が今から食べようと思っているこの食品はきちんと管理された状況で作られたものだろうか。生産者の人たちは食品を丁寧に扱ってくれたのだろうか。万が一にでも悪意を持って食品に毒をいれたりしてないだろうか。いつもそこまで深刻に思い悩むことは無いと思いますが、考えてみれば食品を食べる、という行為にはこのような不安を乗り越えることが必要なのですね。
生産者の人たちについて私達が知っていることは少ない、というかほとんどありません。でも国産の食品であればそこで働く人たちもその食品を食べることがあるでしょう。本人は食べなかったとしてもその人の家族や友人、知人が食べるかも知れません。そうであれば自ずと食品に対する扱いにも注意が行くはずだ。ましてや食品に毒を仕込むことなど考えもしないだろう。そう考える、というかそう信じることができると思います。要するに「同じ釜の飯」を食っているのだから仲間だ、という理屈です。(いや、「同じ釜の飯を食う」というのは本来別の意味ですけどね。)
こう考えると、どの国でもその国の人がその国の人のために作った食品を信頼する、というのは合理的なのだと思います。イギリス人がイギリス産の食品を食べたい、と考えるのは日本人が日本産の食品を食べたいと考えるのと同じではないでしょうか。もっと言うとイギリス人がイギリス人にために作った食品なら、日本人も信頼できる。問題となるのはイギリス人が日本人のために作った食品、あるいはその逆のケースです。生産者と消費者が切り離されている場合、生産者の怠惰さや悪意が消費者に向けられることへの歯止め、すくなくともその歯止めの一つが失われることになるのです。
もう少し進んで考えてみましょう。生産者も消費者も同じものを食べている、というのが信頼の根拠だ。そうだとすると同じ国の中でも完全に分断されたマーケットが成り立っている場合はこの根拠が失われるでしょう。極端な話、金持ちの食品と貧乏人の食品が完全に切り離されてしまったら貧乏な食品の生産者が金持ちの消費者に一矢報いることができてしまうのです。とまあ、これは少し言い過ぎかもしれませんね。
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