SDGsはなぜ「誰一人取り残さない」と強調するのか(江頭教授)
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この記事を読んでいるあなたが高校生なら「誰一人取り残さない」という SDGs のモットーに意外性を感じないのでは。というか、そもそもなんでこんなことが強調されるのか、その方が気になるのではないでしょうか。だって「ただし誰々、おまえはダメだ!」というならわざわざ強調する意味もありますが「誰一人取り残さない」なんて当たり前ですよね。
とは言え、これは現在2021年の私達の感覚です。例えば一年少し前の記事で紹介した人口論を書いたマルサス(トマス・ロバート・マルサス)が考える社会の改善は英国国内かせいぜい欧州までだったのではないでしょうか。あっ、本人に確認したわけではないので間違っていたらごめんなさ。だってマルサスさんが生きていたのは18世紀の英国です。当時の日本は鎖国中で私達のご先祖様の暮らし向きのことはマルサスさんには縁の無い話だったと思われますからね。いや、マルサスさん自身は「誰一人取り残さない」的な事を考えていたかも知れません。でも、その誰かのなかに私達のご先祖様が入っていなかったろう、という話です。
すこし横道にそれました。SDGsの「誰一人取り残さない」というモットーのお話しでしたね。これがなぜ強調されるのか。それはこのモットーが我々がなんとなく考えているよりもずっと微妙な、もっと言うと議論の余地のある原則だ、という事情があると思います。
国連は多数の国の集合体ですから国連に関わる個々人はまずは一つの国の国民として国連に参加しているわけです。自分の国の国民と国連に属する他の国の国民、ここには何らかの差があるのは無理からぬことです。
例えば、ある国に1億円の予算があるとして、この予算をどのように使うのか。国内の飢餓対策に利用するのか、外国での飢餓対策に利用するのか。このように問えばやはり国内に使う、という答えが出てくると思われますし、それを非難することはできないでしょう。
ではその国が飢餓対策を終わらせたとします。そうなると国内の飢餓対策に税金は必要ありません。このとき、その1億円分を減税するのか、それとも外国での飢餓対策に利用するのでしょうか。これは意見の分かれる判断であると思いますが、SDGsの「誰一人取り残さない」という精神に基づけば、この予算は外国での飢餓対策に利用するのが正しいという事になります。
「誰一人取り残さない」は一見当然の様に見えますが、ここまで考えると意外と微妙な判断に踏み込んでいることが分かります。では、その判断はどのように正当化されるのでしょうか。(あるいは正当化されないのでしょうか。)日本は国としてはSDGsを受け入れていますが、個々人の判断はまた別のものでありうると思います。皆さんは自身はどう判断されるでしょう?
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