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核廃棄物と科学の進歩(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

 現在は石油をエネルギー源としているけれど、やがては原子力に取って代わられる。その先は核融合でほぼ無尽蔵のエネルギーが利用できるようになるはずだ。

 なんてことを真面目に信じていたころもありました。1986年のチェルノブイリ原発事故まででしょうか。それとも1979年のスリーマイル島の事故までだったかも。原子力というものは人類の手に負えないものなのでは、という疑問が広がっていったのはこのくらいの時期だったのではないかと思います。これは世間的にもそうであると同時に、私個人としても同様でした。高校生から大学、大学院と進んで行く時期で、科学技術というものがどういうものなのかが分かってくるにつれ、私は原子力に対して懐疑的になっていった様に思います。

 科学技術の発展には事故がつきものだ。新しいことをすれば問題が起こることは避けられない。これは当たり前のことなのですが、普通の技術であれば起こる事故や発生する問題の規模はたかが知れている。(言い方は悪いですが。)それに比べて原子力関係の事故は手に負えないほど広がってしまう可能性がある。勢い、原子力関係の技術開発には厳しい制限がかけられることになって、これでは自由な技術開発への試みも封じ込められてしまう。結果として原子力関係の技術は割に合わない研究となって進歩が滞ってしまうでしょう。(逆に事故が起きても問題が拡散する可能性が小さい状況なら核関係の技術開発も進むのでは。例えば宇宙空間が人間活動の場となれば、そこでの核技術は一気に進むと想像します。)

Radioactivity_haikibutsu

 それにしても...原子力発電所を日本に導入したころ、1960~70年代の大人達は一体核廃棄物をどう処理するつもりだったのでしょうか。

 当時の責任者に問い詰めてみたい気もしますが、おそらくは「科学が進歩して問題を解決してくれる」となんとなく信じていたのではないかと想像します。1970年代に先行する数十年は科学技術が大きく発展した時代でした。結果、科学は進歩するものだ、進歩した科学は何でも解決できるのだ、という雰囲気が世間に共通の感覚としてあった。そんな「空気」だった、ということでしょう。核廃棄物の問題に真面目に取り組むよりも、科学が進歩する、と無邪気に信じる、あるいは信じる振りをする方が楽だった、という背景もあったのかもしれません。

 核廃棄物を数万年にわたって管理する、というのはどう考えても非現実的です。敢えて想像してみるなら、長命な核種を中性子線などを用いた核反応で変化させて短時間で処理を行う。そんな原子核変換の工学体系を考えていたのかも知れません。しかし、前述の様に制限の厳しい研究環境のもとでは残念ながらその様な方向での大きな進歩は見られないようです。

江頭 靖幸

 

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