「事故の無い世界」はめざせるのか(江頭教授)
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本学の1年生向けの授業「フレッシャーズゼミ」は少人数制の授業。10名程度の学生さんが先生と一緒にグループワークを中心とした課題に取り組むものですが、そのなかの安全教育の一環として「ヒヤリハット報告書」の作成が課題となっています。授業を前にこの課題を準備しながらふと考えました。はたして「事故の無い世界」をめざすことはできるのでしょうか。
えっ、前回の記事と同じだって?いえいえ、よく見てください。前回のタイトルは「『事故の無い世界』は作れるのか」だったでしょう。今回のは「めざせるのか」になっています。
「作る」と「めざす」じゃ同じだと言われるかも知れません。でも全然違うと私は思います。その良い例がこの記事の枕に置いた「ヒヤリハット報告書」です。
「ヒヤリハット報告書」についてはこのブログの片桐教授による記事(その1,その2,その3)が参考になるでしょう。
「ヒヤリハット」とは重大な事故はおろか、軽微な事故とも言えないようなちょっとしたトラブルのことです。「ヒヤリハット」は「軽微な事故」のタネであり「軽微な事故」は「重大な事故」に成長する可能性がある。だから「ヒヤリハット」の情報を収集し、その原因を潰してゆけば「重大な事故」を未然に防ぐことができる。それが「ヒヤリハット報告書」の意義です。
ちょっと待ってください。「ヒヤリハット」は「軽微な事故」にもならないほどだ、とはいえやはり事故の一種なのです。会社や大学は「ヒヤリハット報告書」を提出した人間には詳しい調査を行って厳しい罰を与えなくてはならないのでは?
先に引用した記事の中で片桐先生は「ヒヤリハット報告書」を書くのは「あまり楽しいものでは」ないとし、その理由の一つとして時間が奪われることを挙げた上でもう一つの理由として「自分の恥を皆にさらすことに抵抗感を覚えないわけがありません。」と書いています。つまり、会社や大学が罰を与えなくても自責の念といったものがあるということです。その一方で「会社や本学でも積極的にヒヤリハットを書くことを推奨」している。
「ヒヤリハット」はやっぱり事故の一種であり、「ヒヤリハット報告書」を書く本人は恐縮している。しかし、組織(会社や大学)は「ヒヤリハット報告書」を書く事を推奨していて別におとがめなし。
これは「ヒヤリハット」という実害の無い事故の対策によって甚大な被害を及ぼす「大きな事故」が防げるならば「ヒヤリハット」を起こした人物を免責してもよい、という損得勘定に基づくものです。
事故の無い世界を「作る」という立場なら「ヒヤリハット」の存在は許されないものであり責任者は処罰するべきだ、となるでしょう。しかし事故の無い世界を「めざす」立場ではこのような損得勘定は、より事故の少ない世界を実現するための合理的な戦略として容認される。要するに「事故」を在ってはならないものと見るのではなく、実際に存在するものとして一旦は受け入れることが「事故の無い世界」を「めざす」正しい方法です。そして進歩し発展をつづける社会を望むなら「事故の無い世界」を「作る」のではなく「めざす」アプローチこそが相応しいといえるでしょう。
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