映画「赤ちゃんよ永遠に」の描くディストピア(江頭教授)
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「赤ちゃんよ永遠に」は以前このブログで紹介した「ソイレント・グリーン」と同じくディストピア(ユートピアの反対。悲惨な未来。)を描いた映画です。1972年制作のイギリス映画で「ソイレント・グリーン」の一年前、ほぼ同時期に作成された映画であり、当時のアメリカやイギリスの人々が考えていた未来の姿を反映したものと言えるでしょう。
正式な日本語タイトルは「赤ちゃんよ永遠に SFロボットベイビーポリス」となっていますが、原題は「Z.P.G.」。これは「Zero Population Growth (人口増加ゼロ)」の略です。
さて、この映画は
舞台は近未来のある都市(のちにロサンジェルスであることが示唆されます)。スモッグで視界の限られた街の上空を浮遊するマシンのスピーカーから「大統領の重大発表がある」とのアナウンスが流されています。その発表の内容は「環境破壊と資源枯渇はすでに限界に達しこれ以上の人口増加は許容できない状態にある。そこで、これから30年間、すべての人々に対して出産を禁止する」という決定でした。それから8年、子供を持つことをあきらめた夫婦はこどもをまねたロボット、体温があり、子供のかかる病気にはすべて罹り、でも必ず治るように設計されている、という人形の世話をしながら寂しさを紛らわせていたのです。時には隠れて子供を作る夫婦もいますが、やがて密告されて「全人類に対する罪 ( 原語での humanity に対する罪、というのが皮肉に聞こえます)」で公開処刑の運命が待っています。依然としてスモッグに包まれたその都市で、ある夫婦もまた子供を作ることを決意するのですが…。
という内容です。
さて、この映画の世界設定もまた映画「ソイレント・グリーン」と同様に極端に物資が不足した社会を描いていて、奇しくも同じ1972年に発刊された「成長の限界」(詳しくはこちらを)の示した未来予想に連なるものです。当時の「飽食の生活」が持続可能ではないことを薄々感じていた人々がそれぞれに物資不足のディストピアを想像して物語をつくったのでしょう。
さて、本作で描かれたディストピアは「ソイレント・グリーン」のそれとはかなり異なっています。まず、「ソイレント・グリーン」の世界ではひどい格差があり、多くの貧しい人々が苦しい生活を送っていました。それに比べると本作の世界は極めて平等です。人々は平等に貧しい生活を送っているのですが、それでも飢えに苦しんでいるようには見えません。出産の禁止という最悪の規則にも従い、街に流れるプロパガンダまみれの街頭放送を聞きながら、型にはまった貧しい娯楽を与えられて、黙々と日々の仕事をこなす生気のない人々。これは究極の管理社会の描写であり、人々は飢えや直接的な暴力からは守られているものの、その実態は限りなく不自由で、そして不幸なのです。
この作品の描く恐怖は持続不可能な生活を続けたことによる不幸、と設定されていますが実際の不幸は非人間的な、あるいは理不尽な要求を突き付けてくる社会であるように見えます。そもそも人間が不死になったという描写はない(いろいろな病気は根絶されたとされていますが)のですから出産を禁止したら「Zero Population Growth (人口増加ゼロ)」ではなくて人口減少社会になってしまうはずでこの物語内の政府の主張にはどことなく信頼できないところがあります。
本作は地球環境の限界がまだ遠い未来のことだと思われていた時代に作られた物語ですが、その危機感が現実のものとなった今の我々には実際の危機の進行はもっと複雑で把握しがたいものであることが身に染みています。その視点で見返したとき、この物語の異様に単純化された社会状況は、単に製作者の想像力の限界なのかもしれませんが、逆に非人間的な政策を実施する理由として地球環境の危機が利用される、という危険を警告する物語のようにも見えてきます。
PS: 邦題についている「SFロボットベイビーポリス」というのは何でしょう? SF←そのとおり ロボットベイビー←この映画の見どころだよね。怖かった。 ポリス←わからない。
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