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TVドラマ「日本沈没(1975)」(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

 俳優の小栗旬氏主演のTVドラマ「日本沈没 希望の人」について以前紹介しました。その際には原作が出版された1974年の映画版の「日本沈没」と比較して、特にその科学に関する描写について否定的な意見を述べさせて頂きました。

 さて、今回取り上げるのは1975年のテレビドラマ版の「日本沈没」ですが、私は「日本沈没 希望の人」のスタッフの皆さんに謝らねばなりません。

 私が2021年のTVドラマ「日本沈没 希望の人」に対して不満だったのは、日本沈没という前代未聞の大きな変動を扱うとき、多くのデータの収集が必要であり個人の力を越えた最低でも国家レベルの取組が不可欠であって、たとえそれが実現できたとしても未来に起こることを正確に、しかも事細かに予測することなどできない、ということを無視している点でした。このため、全ての異変を的確に予言してみせる2021年版の「田所博士」は科学者と言うより預言者のように見えるし、さらにはドラマの展開もご都合主義に見えてしまいます。

 一方、1974年の映画「日本沈没」ではその点が巧く描けていたと思います。1974年版の小林圭樹氏演じる田所博士は預言者ではなく、ちゃんと科学者に見えるのです。

 ところが!映画版の「日本沈没」の成功を受けて作成されたTVドラマ版の「日本沈没」での田所博士は、やっぱり科学者ではなく預言者になっていました。同じ小林圭樹氏が演じているのに…。どうもテレビドラマというフォーマットが「日本沈没」というストーリーと相性が悪いのかも知れない。「日本沈没 希望の人」を作った人たちも頑張っていたんだろうなあ。

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 「日本沈没」という物語を成立させる大きな「ウソ」を力業で納得させ、そのあと一気呵成にディザスターを描ききる、という映画の構成と違って、TVドラマではある程度の長丁場で山と谷を作りながら話を続けていかなくてはなりません。映画は連続しているものですが、ドラマは細切れです。回と回の間に視聴者は冷静になってしまいますから、多少不自然でも「日本沈没」という現象はある、という前提で話を作っていかなければならないのでしょう。

 それぞれの回で、地震や陥没などの日本沈没に付随する天変地異が起こるのですが本当なら登場人物達はこのような災害の不意打ちを受けるところ。でもそれではドラマになりません。「田所博士の予言」→「主人公達が対応すべく努力」→「田所博士の予言通りに災害が起こる」→「意外な結末」というパターンが必要なのですね。

 さて、科学に対する見方、という意味ではこの1975年版の「日本沈没」も2021年版の「日本沈没 希望の人」も似たようなものだとして、それでも私は1975年版の方を評価したいと思います。実はこのドラマの見所は先に述べた毎回起こる天変地異の描写なのです。作成には東宝映像がクレジットされていますし、制作は田中智幸氏。要するにこれは「怪獣のでない怪獣映画」で、天変地異の特撮描写こそがこのドラマのメインディッシュというわけなのです。

 この作品は「怪獣のでない特撮映画」のTVドラマ、もっとはっき言えば(円谷のクレジットこそありませんが)「怪獣の出ないウルトラマン」と言った方が良いでしょう。

 実際、2022年公開の「シン・ウルトラマン」でちゃぶ台、じゃなかった居酒屋のシーンで使われていた五木ひろし氏の「小鳥」はこのTVドラマ版の「日本沈没(1975)」の挿入歌でもあるのです。庵野秀明&樋口真嗣のコンビがリスペクトする特撮のリストにおそらくこの「日本沈没(1975)」も含まれているのですね。

江頭 靖幸

 

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