「成長の限界」再読 その3 (江頭教授)
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第1回、第2回に引き続き、「持続可能な(サステイナブルな)発展」の起源の一つである「成長の限界」について述べてゆきます。成長しない社会とはどのような社会なのかについて述べる前に、本書が述べる成長が限界を迎える理由についてもう少し説明を加えましょう。
本書で述べられている「成長」は厳密には「幾何級数的成長」、つまりねずみ算式の成長だ、という点については前回詳細に紹介しました。では、何がねずみ算式の成長をするのでしょうか。
まず一つ目は明白で「人口」です。人間がねずみ算式に増える、と言われるといい気持ちはしませんが産業革命以後の人口の増加の様子をみれば正にそんな印象です。こんなスピードで人口が増えてしまえばいつかは限界に達するだろう、とは多くの人が感じることと一致しているのではないでしょうか。
もう一つ、産業革命以降に急速な成長を示しているものとして、本書は「工業生産」の成長を挙げています。正確には工業生産の速度なので加速というべきかもしれません。工業生産が資源の消費につながるとすれば、工業生産の加速は資源消費の加速に対応しており、資源の枯渇、という限界に達することも容易に想像されます。
さて、ここで「工業生産が資源の消費につながるとすれば」と書きましたが、この仮定は実は自明なことではない、というのは一つの注目点です。
例えば「自動車の生産が100台から110台に10%成長した」という状況を考えてみたとき、単純に資源消費も10%成長しただろう、と予想するかもしれません。しかし、新しく作られる自動車がすべてより小型の車だったとしたら資源消費は10%も増えない、それどころか減少しているかもしれません。
あるいは「自動車をモデルチェンジしてデザインを変えたら、10%高い値段で売れた」というケースはどうでしょうか。自動車の売り上げは10%成長していますが、資源消費が同じように成長しているとは限りません。
本書で「工業生産」は一年当たりの生産のドル換算額、つまり金額で表示されています。ですから「工業生産」の成長は資源消費の増加に直結する部分以外にも、技術やデザインの改良の寄与もあるのです。ただ、本書で紹介されている未来予測では、それぞれのシミュレーションで一定の技術レベルを固定して計算を行っているため、「工業生産」の成長が「資源消費」の成長に直結した結果が示されています。このため、資源消費に成長の限界がある、というべきところを、工業生産に成長の限界がある、と誤解する向きもあるようです。
実際、本書を企画したローマクラブが出版から40年を経て発表した「What was the message of "Limits to Growth"」というプレゼンテーションでは本書が主張しているのは「経済成長 (economic growth)に限界がある」ということではなく「今で言うエコロジカル・フットプリント(Ecological footprint, 環境への負荷の指標)の成長に限界がある」ということだと強調しています。
もう一点、本書のシミュレーションの特徴と関連して指摘しておきたいことがあります。
1972年当時の計算機の性能を考えるとある意味当然なのですが、本書のシミュレーションでは世界を表すいろいろな数値が一つしかありません。世界の人口、世界の一人当たり工業生産、世界の汚染、などです。ヨーロッパの人口とか、アメリカの一人当たりの工業生産、日本の汚染といった個別の地域に数字が予測されているわけではありません。つまり、シミュレーションの中では世界は一つ、人類はみな平等なのです。
現実には明らかに豊かな国と貧しい国があり、本書が予測するような人口の急減と工業力の崩壊は実際には世界の一部、おそらく貧しい国で起こると考えるのが普通ではないでしょうか。有り体に言えば世界の貧しい部分を切り捨てることで豊かな国々は危機を回避できるのではないでしょうか。
ここで、本書の二つ目の結論をもう一回引用してみましょう。
(2)こうした成長の趨勢を変更し、将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態 は、地球上の全ての人の基本的な物質的必要が満たされ、すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。
この文章の後半をみれば、著者達が単にコンピュータの制約だけで人類が平等なシミュレーションを示したのではないことがわかると思います。本書の立場は貧しい国々、いわゆる発展途上国(以前はあからさまに後進国とよばれていました)は発展するべきである、貧しい国々の人々は豊になる権利があるはずだ、という思想で一貫しています。不平等な世界を認めてしまえば「人類の危機」は「貧しい国々の危機」に過ぎないのかもしれません。しかし、本書はそのような考えを拒否し、理想主義的な立場で人類の未来を構想し、将来の課題を提起しているのです。
実際には多くの発展途上国の発展は思うようにいかず、せっかく発展の契機を得てもそれを継続することができない、つまり「持続可能な発展」を実現できないこともあったのです。本書では人類の「持続可能な発展」の概念が示されましたが、同時に本書の根底にある人類は平等であるべきだ、という思想はもう一つの「持続可能な発展」、発展途上国の持続可能な発展(ここでは開発と訳すべきもしれません)の概念の根底にあるものです。
では、ここで示される「将来長期にわたって持続可能な」世界とはどのような世界なのでしょうか。
それはまた次回のお話としたいと思います。
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