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サステイナブルでない存在とサステイナブルな存在(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

 前回の記事では「サステイナブル工学」がサステイナブルでなくても良いと考えているものは何か、について考えました。その一つとして「企業」を挙げましたが、今回はその続き。もっと身近な、いや最も身近なサステイナブルでない存在について考えてみましょう。

 もったいぶるのは止めましょう。サステイナブルで無いのは「人間」です。

 人間に限らず、生物というものには必然的に寿命があります。永遠の生命、不老不死は見果てぬ夢。言い古された話ですが「限りある生命を懸命に生きる」ことをこそ良しとすべきでしょう。個々の人間に有限の寿命があることで種としてみたときの人間は常に新陳代謝をくり返して存続を続けることができる。つまり個体としての人間が有限であることが種としての人間をサステイナブルにしているのですね。

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 部分がサステイナブルでないことによって全体がサステイナブルになる、というこの構造、実は前回の企業と社会の関係にも共通しています。企業は成長を目指すものですが、それ故にサステイナブルではない。失敗すれば倒産することも覚悟しています。人間や生物の場合は自然と寿命がくるためにサステイナブルでないことになる。このため、企業は偶然の結果として永続する、サステイナブルになることもあり得るのですが、人間は確実に死を迎える、と言う点では少し異なっているかも知れませんが。

 この視点をもつと、なぜ近年になって突然人類全体がサステイナブルではない可能性に注目が集まっているのかが理解できると思います。人間の活動範囲に対して世界がずっと広かった時代、世界にはいろいろないろいろなコミュニティ、いろいろな国、いろいろな文明がありました。それぞれの集団はサステイナブルでない、つまり滅びてしまう可能性のある存在だったのです。その一方でそれらの総体としての人類全体は永続するのがあたりまえ。サステイナブルな存在だと思われていたのですね。

 それに対して現在の地球は人類にとって小さくなってしまいました。世界が一つの存在として意識される様になると、その存続が疑問視されることになってきます。つまり人類がサステイナブルかどうか、が議論の対象となるのはグローバル化の帰結の一つだ、と理解することもできるのです。

江頭 靖幸

 

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