「デカルト・カント・ショーペンハウエル」(江頭教授)
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このブログを読んでいるあなたがもし高校生だとして、はてどのくらいの人かタイトルの「デカルト・カント・ショーペンハウエル」のことを知っているでしょうか。いや、デカルトもカントもショーペンハウエル知ってますよ。有名じゃないですか、という人も居るかと思いますが、実はこの並びに意味があるのです。
もったい付けるのは止めましょう。この「デカルト・カント・ショーペンハウエル」をひとまとめにした「デカンショ」をかけ声にした「デカンショ節」という歌があるのです。(もっとも「デカンショ」の語源については諸説ありますが。)
デカンショ、デカンショで半年暮らす
後の半年ゃ寝て暮らす
という歌詞。これは「デカルト・カント・ショーペンハウエル」をネタに哲学の議論に花を咲かせることと、惰眠をむさぼること以外何も生産的なことをせずに怠惰な生活をする、という頭は良いのかも知れないが決してが賢くはない大学生の自堕落な生活を自虐を込めて、あるいは憧憬を込めて歌ったものなのです。
あっ、ちょっと待って、怒らないで。これを読んでいるあなたが「今の」大学生なら「ふざけるな!」と言いたくなるはず。でもここで自堕落な生活を送っているという「大学生」は明治時代後期から戦前の昭和のころまでの学生のこと。この「デカンショ節」は当時の有名な学生歌なのです。
さて、「寝て暮らす」が怠惰な生活なのは誰でも分かることだと思いますが、「デカンショ」をネタにした哲学の議論がなぜ怠惰で自堕落だということになるのでしょうか。これは議論(つまりディスカッション)には娯楽という側面があるということを反映しています。
議論の中では、時として言い争いや口げんかの様な対決の場面が見られるものです。見ているものにとってこれは時に非常に興奮させられる見世物になります。さらには論争をしている当人達もアドレナリン出まくりの興奮状態に。要するにスポーツと同じ様なエンタテイメント的な要素を持っているのです。
さらに議論や言い争いには特別な道具も要りません。別段ルールも決まっていませんからなんとなく始まってだらだらと続けられる。一人ではできない、という点を除けば時間つぶしには最適の娯楽だとも言えるでしょう。ついでに「デカルト・カント・ショーペンハウエル」など哲学界の偉人をネタにすれば、自分達は知的だと思い込むこともできてスノビズムも満足させられるというおまけ付き。「ゲーム」というものがなかった時代の学生達にはうってつけの娯楽だったのでしょう。
とはいえ、ただの議論のための議論は完全な時間つぶしの娯楽でしかありません。この「デカンショ節」を歌っていた昔の学生達の人生には「青春の思い出」という果実しか残さなかったのではないでしょうか。
でも後の世にはめざとい人が居たものです。この議論のエンターテイメント性に注目してテレビ番組のフォーマットに落とし込み、35年もつづく長寿娯楽番組を作り上げるという偉業を成し遂げたのですから。
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