「体力」とは(江頭教授)
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前回の記事では「年をとればおまえも分かるよ」と言われて不服だったという話しをしましたが、そのなかでも特に気に入らなかったのが「成功するしないは結局は体力だよね」という言い方でした。
そんなバカな。少なくとも科学の分野であれば優劣を決めるのは論理の正しさのはず、だったら正しい論理にたどり着ける知性が成功するしないを決めるはずだ。というのが当時の私の考え。正しいかどうかと体力には関係ないですよね。
うーん、これは「思い起こせば恥ずかしきことの数々」というヤツでしょうか。この物言いの背後には「自分は体力に自信は無いが知性で人後にもとるものではない」という自信、というか驕り、というか高ぶりがあるわけですね。で、当然ながら「年をとればおまえも分かるよ」と言われる訳ですが還暦を迎えたいまなら本当に「分かり」ました。
当時の私が「体力」と言われて思い描いたのは筋力や肺活量とか持久力などなど。それにおそらく運動神経もいれて考えていたのだと思います。つまり「体育の能力」です。対して「知性」は「勉強」と言い換えても良い。つまり「俺は体育は苦手だけど勉強はできるんだ。それで充分だろう。」という訳ですね。
でもこの「成功するしないは結局は体力だよね」という言い方で問題になっている体力というのは、たとえば「徹夜も大丈夫」とか「残業も休日出勤もOK」「24時間戦えます」とかそんな意味だったのですよね。若い頃の私は(さすがに徹夜はNGでしたが)休日出勤が苦になったことなどありませんでした。つまり私は体力があるほうだ、ということになります。
さて、私の反省は置いておいて、この「成功するしないは結局は体力だよね」という言葉の意味するところについて少し考えてみましょう。わざわざこのように言うのは「知力が体力に制限される」ことを問題にしているからでしょう。休養充分な状態でなら簡単にできる「知的な作業」でも疲労困憊していては手に負えない。つまり知的な能力があっても疲れやすい(体力の無い)人はハンディを負っているのだ、ということです。
結局「知力」と「体力」を二分して考えるのではなく、両者を共に育てなければ成功はおぼつかないよ、ということなのでしょう。年をとって体力が無くなってきてはじめてこの事に気が付く、というのは少し遅すぎですかね。
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