「安全の反対は危険」ではない(江頭教授)
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私が担当している「サステイナブル環境化学」という授業では(タイトルから予測される通り)化学物質による環境汚染の問題について触れます。公害問題、とくに水俣病の問題などは大きなトピックスなのですが、その問題を取り上げた後に「では、今の日本で同じような公害問題が起こる可能性はあるだろうか」と議論を広げます。
そして水質汚濁防止法などの規制と基準値の話をするのですが、その際に一般に「基準値」に対して持たれているイメージが少し気になっています。私は
基準値というものは「この問題に対応しなくてはならない」というシグナルを発するためのトリガー
と強調するのですが、これは「基準値」を絶対に超えてはならない、ある種「致命的な」量、ととらえている風潮を意識してのことです。
どうも「安全の反対は危険」「危険の反対は安全」と考えている人たちがいるような。
たとえば海や川で何か危険な物質が検出されたとします。その濃度がどの程度の値であるかによって非常に高ければ危険、低ければ安全だとすると、両者の間の境目が基準値である、というイメージが持たれている様です(下図)。
こう考えていると、基準を超えたら危険だ、問題だ、という事になるのでしょうね。
ではこのような意味での基準値をどうやって決めれば良いのでしょうか。これは非常に難しい、というか不可能なことです。その理由は実際にはその危険な物質に対して弱い人や強い人がいることや、研究者によって見方が異なること、またどこまでを安全、すなわち社会的に許容できる、と判断するかは主観的な問題で客観的な決定ができないことなどが挙げられます。
さて、以上の事情を考えて、これなら充分に安全だと大半の人が合意できる領域を「安全」としています。危険な物質の濃度が非常に高い領域は「危険」と分類できるわけですが、その間にはどちらかわからない領域が必ず残る事になります。基準値とは「安全」と「危険」の境界ではなく、「安全」と「わからない」の境界なのです。
では基準値を超えた濃度の化学物質が検出されたらどうするのでしょうか?
普通は危険な物質がやってくる原因を明らかにし、それに対策をとって基準値より低くなるようにします。その間、測定値は基準値を超える状態になるわけですが、「わからない」と「危険」の境界を超える前に対応しよう、というわけですね。
基準値を超える化学物質が検出されたら決して看過するべきではありません。とはいえそれですぐに人がバタバタと死んでゆく、などということはないのです。だから落ち着いて対応を取ろう、ということですね。