藤子・F・不二雄SF短編「定年退食」(原作漫画)(江頭教授)
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NHKがドラマ化した藤子・F・不二雄SF短編の一つ「定年退食」について書いてきたのですが、今回はその原作、藤子・F・不二雄氏自身による漫画作品について触れましょう。今回のNHKのドラマ化は原作にかなり忠実なのですが、それでも肝心なところに違いがあるのでは、というお話です。
まず、「定年退食」の漫画原作は1973年の作品で今から50年前(半世紀前!)に書かれました。この年には第4次中東戦争に端を発したオイルショックが起こっていますから、資源不足の影響が物価高を通じて多く人々に実感された時期なのかも知れません。(私は子供だったので物価高を実感することはありませんでしたが…。)過去に書かれた多くの作品がそうである様に、この作品にも(ストーリー内で描写された時代ではなく)漫画が書かれた時代の雰囲気がタイムカプセルの様に封印されています。
今回のドラマとこの原作漫画を比べて違っている点の一つとして、主人公(老人)の友人、吹山(これも老人)の孫(こちらは若者)の描写、それも見た目の描写があります。
実は吹山(青年からみれば祖父)も、その息子(青年からみれば父)も長髪で、髪の毛を短くした青年を「親からもらった髪を短くするとは何事か」と責めるのです。この物語の世界では長髪であることが真っ当な人間の身だしなみであり、それに不満で髪を短くして抵抗の意思を表現する若者達は「無髪族」と呼ばれているのです。
2023年の現在では、この「無髪族」の設定はあまりインパクトのあるものではありません。でも、原作漫画が発表された1973年ごろの世相を前提に考えれば「無髪」は「長髪」の裏返しなのだ、という点に気が付きます。
つまり、漫画版に出てくる主人公をはじめとする老人達は1973年時点での若者であり、わざと散髪を怠って長髪にすることで世の中対する抵抗を表現していたのです。その反抗的な若者達がいつしか年をとって世の中の主流となったとき、抵抗の象徴だった「長髪」は体制の一部となった。そして今度は逆に「無髪」が抵抗の表現になったという描写なのです。
この「定年退食」という作品では「年寄りが若者に席を譲る」ということが抽象的にも具体的にも描写されています。原作漫画の世界設定は、席を譲ってもらう側の1973年時点での若者達が逆に席を譲る側の老人になった時代、という位置づけになっているのです。おそらくこの世界の資源不足や食糧危機はこの作品の本当の主題ではなく、「世代交代」を際立たせるための設定なのかも知れません。そう考えると不自然なほど淡々とした食糧危機の描写にも納得が行きます。
件の青年、原作漫画ではスポーツ刈りの様にはっきりと分かる短髪なのですが、今回のドラマ版だと普通の髪型にしか見えません。「これで無髪とは言わないだろう」という程度です。また、原作漫画ではラスト近くのシーンでは羽織袴を着ていて、1973年の感覚ではその時点の老人の様な格好です。でもドラマ版では今の普通の若者風の格好をしています。そしてこのシーンに出てくるこの青年の彼女も原作漫画ではSFに出てくるような(1973年の感覚での)未来的なデザインの服を着ているのですが、ドラマ版では今(2023年)でも普通に見かける様な格好です。
どうもドラマ版の作り手達は「世代交代」というテーマにはあまり興味が無いように見えますね。
PS: 長髪が社会の体制の象徴とか言いましたが、この物語の主人公は長髪ではありません。主人公は実は社会に不満を持っていることの象徴…とかではなく、単にハゲているのでは。(帽子を被っているからよく分かりませんが。)
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