サステイナブル化学としての「ハーバーボッシュ法」(江頭教授)
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ハーバーボッシュ法は大気中の窒素から窒素肥料の原料となるアンモニアを合成する工業的なプロセスです。高圧力の条件でアンモニアの生成を実験室レベルで実現したのがハーバー、ボッシュはその手法を工場レベルで実現したのでした。
さて、これはもう120年くらい前のお話なのでハーバーもボッシュも「私はサステイナブル化学の研究をしています」という意識は無かったと思います。でも現在から振り返って見ると当時の状況に対応した「サステイナブル化学」に見える、というのが今回のお話の趣旨です。
まず「サステイナブル化学」についての私の考えを述べておきましょう。例えばこちらの記事に書いた内容ですが、サステイナブル化学を含むサステイナブル工学の成果物は、別に一般の工学的な成果物と異なる自然の原理に従っている、ということはあり得ません。そうではなくてサステイナブル工学は工学的な研究や開発の過程で単に「人々の欲するものをつくる」ことのみを目指すのではなく、同時に「社会の持続可能性」を高める形でそれを実現することを目指すものです。
さて、ハーバーボッシュ法に戻って、そもそもなぜハーバーが窒素からアンモニアを合成する研究を始めたのかを見ていきましょう。前回紹介したハーバーの伝記「毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者」には以下の様に記されています。
一八九八年にイギリスのブリストルで開かれた大英学術協会の集会で、著名な物理学者であるウィリアム・クルックス卿は、いまやマルサスの原理の通りに人口爆発が起こっており、窒素肥料の不足のために食糧危機が目の前に迫りつつあると警告を発した。そして解決法として大気の窒素を植物が利用しやすいアンモニア、硝酸に変えることを提案し、その研究の緊急性を強調した。
当時のヨーロッパでは増加する人口に対して充分な食料供給を維持するために食料が増産されていましたが、その影響で地力の劣化が深刻な問題となっていました。つまり農業が持続可能では無かった訳です。この問題は植物の生長に必要な成分を解明し、それを肥料として供給することで一旦は解決したように見えました。しかし、窒素肥料として用いられていたのは硝石という天然資源。これは南米西海岸で産出され、ヨーロッパの国々は輸入に頼るしかなく、その資源量も有限であり、再び農業生産の持続不可能性が明らかになったのです。
つまり一九世紀末のヨーロッパでは窒素肥料の供給が農業の、延いては社会の持続可能性を脅かす主要な課題だったわけです。その解決法として空中窒素固定が有効であることはハーバーのみならず多くの化学者の間で共通の認識でした。あたかも現在の我々が温室効果ガスの排出が社会の持続可能性の主要な課題であることを認識していて、その解決方法が省エネルギーと効率的な再生可能エネルギーの供給システムの確立にあることを熟知しているかのごとく、でしょう。
ハーバーとボッシュが空中窒素固定の技術を開発したのは単なる偶然ではありません。これは社会の持続可能性を維持するために問題意識を共有した化学者の集団が、そのように意図して努力した成果だとみることができると思います。「社会の持続可能性」を高めるための研究、という意味ではまさに「サステイナブル工学」の研究といって良いでしょう。もっとも、この当時の科学技術では「人々の欲するものをつくる」ことと「社会の持続可能性」を高めることの間に、矛盾がない、というか両者はほぼ一致していたのですが。
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