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映画 黒澤明「生きる」について追記(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

  黒澤明監督の1952公開の映画「生きる」については前回紹介しました。記事の分類が「推薦図書」になっている通り、私としては「お勧めです」と言いたい映画(推薦図書じゃなくて推薦映画ですかね)なのですが、それでも少々気になる部分がある、というのが今回の内容です。

 先に紹介したようにこの映画は「自分の死が間近に迫っていることを知り、惰性で生きてきた日常を見直し、本当に意義のある仕事に打ち込むことができた」主人公が肯定的に描かれています。このテーマはとても魅力的ですし、それを分かり易く描き出す黒澤監督の技量も見事と言うしかありません。

 特に主人公が「自分にもできることがある」と気づく喫茶店のシーン。誕生日祝いをしている(おそらく)学生のグループが歌い出す「Happy birthday to you」という歌声が主人公の新たな門出を祝福するかの様に店内に響く流れなど実に素晴らしい。素晴らしすぎてリアリティが薄い、というか戯画化されているというか、はっきり言って漫画みたいです。(いや、褒めているのですよ。)

 とはいえ、余りにも巧く出来ているからでしょうか。やはり気になる点があるのです。

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 この映画では「人生を懸けるに足る有意義な仕事」として「公園の整備」という仕事が、それの対極にある「忙しくて退屈な日常業務」が「意味のない仕事」として示されています。映画冒頭の「公園の整備」を陳情にくる主婦達がたらい回しにされるシーンなどが「忙しくて退屈な日常業務」を代表しているわけですね。

 映画だから、フィクションなのですから、この様なデフォルメ、戯画化、カリカチュアライズは当然なのですが、果たしてこの主人公がそれまで行ってきた業務は「死んでいるのも同じ」な無意味なものなのでしょうか。それに対して「公園の整備」は残り少ない日々を家族(この映画の主人公の場合は息子ですね)と分かち合うよりも重要なものなのでしょうか。

 現実の職場には意味があるような、意味がないような仕事が溢れていて、それをこなすことは誰からも認められる偉業ではないものの、何者にもないがしろにされるべきではない。これがリアルな日々の仕事だと思います。

 映画は一つの寓話としてその仕事という灰色の連続体を白と黒の2項対立で示しているわけですが、そのフィクション性というか、漫画性がちゃんと伝わっているのか、少し気になっているのです。

 特に主人公が働いているのが市役所という正に「お役所仕事」という言葉で軽く扱われがちな職場であることも気になる点です。作品中にも民間と役所は違うのだ、役人は特別に無気力なのだ、といった表現もあり、これはどうしても安易は役所批判に見えてしまいます。

 面白くて印象的な作品であればあるほど、このような安易な姿勢はやがて視聴者に市役所に対する偏見を植え付けるのではないか。公僕、パブリックサーバントへのあるべきリスペクトを毀損するのではないか。そんな事まで考えてしまいます。

 えっ、なんでそんな事を気にするのかって?

 それは、そこを完全に取り違えていた鑑賞者を私が知っているからです。そう、TVでこの「生きる」を見た子供の頃の私自身です。

 

江頭 靖幸

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