« 応用化学科の「学位記交付式」(江頭教授) | トップページ | 今年最初のオープンキャンパスは3月24日(明後日の日曜日)に実施します(江頭教授) »

「長崎は今日も雨だった」から明日も雨なのだろうか?(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

長崎は昨日も今日も雨だった、だから明日も雨だろう

という短歌(?)は昔(1971~)にNHKで放送していた平賀源内を主役とした時代劇「天下御免」の中に出てくるものだと記憶しています(私の記憶違いかも知れませんが…。)

 さて、この短歌のベースにあるのは内山田洋とクールファイブによる1969年のヒット曲「長崎は今日も雨だった」です。「今日も雨だった」とわざわざ「も」と言っているのだからおそらく昨日も雨だったのだろう。そして「だから明日も雨だろう」となるわけですね。

 でもこの短歌の記述が真実であれば明後日も明明後日も雨ということになってどう考えてもおかしい。そのおかしさがこの短歌の面白さになっているのでしょう。

 と言うわけで、冗句の解説という野暮なことをしてしまったのですが、今回考えたいのはこの

長崎は昨日も今日も雨だった、だから明日も雨だろう

という論法のどこが間違っているのか、です。

51jaa5banxl_ac_

 まず当たり前ですが、我々は「長崎はいつも雨」ではないことを既に知っています。長崎にも他の町にも雨の日もあれば晴れの日もある。これは日本人の、というか地球人の常識ですよね。

 では、地球人でない宇宙人がはじめて地球にやって来た、あるいは地球から遠く離れた惑星の住人が地球からのラジオの電波を受信して「長崎は今日も雨だった」を解読したとしたらどうでしょう?

 彼らからみれば「長崎」は未知の場所、「雨」も未知の自然現象でしょう。「Aという場所でBという現象が二日続けて観察されたので、三日目も同じ現象が起こると予測される」というのは(いささかサンプル数が少ないという問題はありますが)そう悪い推論でもなさそうです。そして実際に三日目が雨かどうか。それは三日目になってみなければ分からないのですから「だから明日も雨だろう」というのは「科学的な予測」と言えるのですね。

 翻って、「科学的な予測」というものの根拠は何でしょうか?大本まで遡ってみると実は

長崎は昨日も今日も雨だった、だから明日も雨だろう

と本質的には同じものだと言えるのではないでしょうか。未来のことは誰にも分からないのに、過去に起こったことが未来にも起こると期待しているのですから。そしてその「科学的な予測」は事実をもって否定されるまでは「科学的」であり続けるのです。

 もちろん、長崎は「明日も雨だろう」という「科学的な予測」は数日、長くとも数十日で否定され、「科学的」には正しくないことが分かるでしょう。ですが、先に書いた「この論法のどこが間違っているのか」という問に対する答えは、論法という点に限れば「どこも間違っていない」です。間違っているというのは新たな事実の観察によって分かることです。そして、この事実(あるいは実験)によって否定されるという点が科学の本質なのですね。

 今我々が「科学」と呼んでいるものは数日はおろか、数百年の、いえ人々の常識レベルの知識まで含めれば数千年以上の試練を経て生き残ったものです。その「確からしさ」は絶大ですが、とはいえその基本にあるのは「過去に起こったことが未来にも起こる」という期待であり、期待でしかないですから、実は明日にでも覆される可能性はあるのですね。

江頭 靖幸

 

« 応用化学科の「学位記交付式」(江頭教授) | トップページ | 今年最初のオープンキャンパスは3月24日(明後日の日曜日)に実施します(江頭教授) »

日記 コラム つぶやき」カテゴリの記事