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人間はサステイナブルか?(江頭教授)

| 投稿者: tut_staff

 本学工学部の特徴の一つであるサステイナブル工学ですが、この「サステイナブル」という言葉にはいろいろな意味がある、その一例として今回は人間がサステイナブルかどうか、あるいは人間がサステイナブルとはどういうことかについて考えてみたいと思います。

 まず人間としての「私」を考えてみましょう。具体的に私(江頭)というのわけではなくて、個人、と言う意味です。

 「私はサステイナブルではない(私は持続不能です)」と誰かが言うのを聞いたら、まずは病院に行かせるべきでしょう。サステナブルという言葉を生物としての人間の活動として、1日、1年、数年というスパンで考えるとすれば人間はサステイナブルと言えるでしょう。

 でも、もっと長い時間、たとえば100年というスケールで考えればほとんどの人間は死んでしまうわけですから、人間はサステイナブルではない、ということになりますよね。

 こう考えると、サステイナブルという言葉は時間のスケールによって答えが変わる言葉だということが分かります。「サステイナブルな○○を目指す」と言ったとき、そのサステイナブルがどの程度の時間スケールでのサステイナブルなのか、それによって問題の分析や具体的な対策も変わってくるのです。

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 さて、今度は「人間」をもっと大きなスケールで考えてみましょう。個人ではなく集団としての人間、一つの村や町などの共同体や国家、ぐっと大きくして世界全体まで考えれば「人類」も対象になるでしょう。

 さて、人間ひとりひとりには必ず死が訪れるのですが、集団レベルで考えれば個々人の死を越えて持続することができます。その集団(村や町)が持続すること、これは昔の人々、産業革命以前、1人の人間の一生では社会の変化を実感できないほどにゆっくりと変化する社会に生きていた人々にとっては当たり前の感覚だったのだろうと思います。というか、そもそも持続可能性は、それについて考える事すらなく、当たり前以前の状態だったのではないでしょうか。

 産業革命が始まって以降、世界の各地で急激な社会の変化が起こるようになりました。1人の人間の一生のうちに大きな社会の変化を目撃する、ときには自分の属していた共同体が解体してしまうことも起こる。そんな経験をした人々が増えれば、社会が変化するものだ、という認識が生まれます。その変化のなかで自分の共同体が失われてしまうのではないか、自分の属する国家がなくなってしまうのではないか、そんな心配が杞憂とは言い切れないものとして広がったのでしょう。

 その後、第二次世界大戦後の核開発競争の結果、人類全体が全面核戦争によって死滅してしまう、という心配が現実的なものになりました。このとき「人間はサステイナブルか?」あるいは「人類はサステイナブルか?」という問題意識が人々に中に根付いたのだと思います。

 人間の一生程度の時間スケールで「人類はサステイナブルか?」を問う、という意識が生まれれば「人類をサステイナブルにするにはどうすれば良いか?」という問に発展するのは時間の問題です。「サステイナブル工学」はこの問に対する工学分野からの回答である、と私は考えています。

 

江頭 靖幸

 

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