「科学」はなぜ正しいのか?(その2)(江頭教授)
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以前の記事で「科学」はなぜ正しいのかについて考えてみました。
そこでは、科学の理論で予測されたことを実際に実行してみると予測通りになる。つまり実験的に正しいことが確認される。この繰り返しが科学の正しさの根拠である、として
我々が普通の機械を作って化学物質を生産していること、それ自体が「科学の予測の正しさ」の証となっているわけですね。
と書きました。今回はこの議論にもう少し付け加えさせてもらいましょう。
前回はいい感じでまとめていますが、予測が当たり続けているから、というのは実は正しさを絶対的に保証するものではりません。むかし、「長崎は今日も雨だった」という歌がはやったときに
長崎は 昨日も今日も 雨だった
だから明日も 雨だろう
という都々逸がありました。昔の長崎の降雨データや気象学の知識が全くなかったとしたら、「だから明日も 雨だろう」は完全に科学的な手法に基づいた予測です。もちろん、長崎にだって晴れの日はあるので早晩、この「科学的な予測」は覆されることになります。科学的な態度のもう一つのポイントは予測が覆されたときにどう対応するか、です。
晴れた日でも雨が降っていると言い張ったり、晴れているという人を死刑にしたりするのではなく、理論の方を修正して「晴れた長崎」に対応できるようにする、それが科学というものです。
科学の理論は実験結果を説明するためのもので、理論と実験が矛盾したら理論を修正すべきだ。
あまりにも当たり前で「だから何」という気がしますが、これは宗教との関係で考えると深い意味があります。宗教的な聖典が現実と矛盾したらどうするのか、聖典を書き換える、という宗教があったとしたらなかなか革命的なのではないでしょうか。科学の理論は宗教的な聖典ではありません。事実と矛盾すれば修正される、修正されてより正しい理論になるのです。科学が正しいと考えられるもう一つのポイントは「たとえ間違っていてもいつかは修正される」様になっているからだと言えます。
もう一歩深く考えると、今現在の科学の理論は不完全であるからこそ完全に向けて進んでゆくものであると言えるでしょう。その一方で宗教の聖典は今現在で完全なものであると主張しているがために、たとえ間違いが含まれていても修正されることはありません。
科学は完全ではない、つまり、ある部分では修正される可能性があることが認められているからこそ科学はより正しいものへと進歩してゆきます。ですから「科学が正しい」と信じられるのは、逆説的ですが「科学が必ずしも正しくないことを認めている」からなのです。
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