映画「子鹿物語」(江頭教授)
| 固定リンク 投稿者: tut_staff
「本学のメディア学部で教鞭を執ってもらっていた金子先生はアニメーションにCGを導入するという当時では最先端の仕事をしておられた方で、フジテレビの『子鹿物語』などの作成にかかわっておられたんですよ。」
「理事長、アニメの『子鹿物語』はフジテレビじゃなくてNHKですよ。」
なんて会話があって、ふと「子鹿物語」のことを思い出しました。件のアニメ版は今では視聴が難しいそうなので、1946年の映画(私は何となく「グレゴリー・ペック版」と記憶していました)を久々に見てみた、という次第です。今回はアマゾンの Prime Video での鑑賞。本当に40~50年振りです。
さて、「子鹿物語」というぐらいですから、もちろん子鹿が出てきます。そして写真を見て分かる様に少年(ジョディという名前です)がその子鹿をペットにする話なんですね。ところが、肝心の子鹿が登場するのは物語の後半に入ってから。オープニングでも述べられていますが、この物語はアメリカの開拓民の生活と、その厳しい環境の中で成長してゆくジョディの姿を描いた作品なのです。
物語のスタートはジョディの父親の回想から。開拓地に入植した経緯が語られるのですが「南北戦争が終わって」からの入植という説明から、それ以前にいろいろな事があったのだろうと想像させます。そして開拓地の町で出会った女性と結婚し、今は11歳になる息子、一人っ子のジョディを育てているのです。
この「一人っ子」という設定、いまでこそ何の違和感も無く受け入れられるのですが、おそらく当時の感覚からすれば子供の人数が少なすぎると感じられたでしょう。物語の開始すぐに、実はこの夫婦がもっと多くの子供を授かりながらも、どの子供も赤ん坊のうちに亡くなったのだ、という背景が明らかになります。
そんな事情もあるのでしょう。いつも不機嫌にしている母親に対して、ジョディは「ペットを飼いたい」という希望をなかなか伝えられずにいます。そんな時、蛇に噛まれた父親が毒を吸い出すために射って殺した鹿が、たまたま子鹿をつれていたことから、「父の命の恩人」である鹿の子供を飼うことをみとめてもらうことができたのです。
(後半には「子鹿物語」の結末についてのネタバレがあります。)
はじめてのペットに大喜びするジョディは、子鹿にフラッグという名前をつけてかわいがるのですが、やがて成長したフラッグは畑に植えた作物の芽を食べてしまうようになります。折からの悪天候で不作が続き生活が苦しいジョディの家では、もはやフラッグを養うことは難しい。その上、作物にまで被害がでるとなってはもはやフラッグを飼い続けることはできない。それどころかフラッグの存在は家族の生存の脅威にすらなっているのです。
不本意ながらもジョディは、銃の引き金を引き、自らの手でフラッグの命を絶つのでした。
「子鹿物語」というタイトルからは想像しづらい重い展開にかなり驚いたからでしょうか。50年近く前に(TV放送で)見た映画ですが、この結末についてはよく覚えています。開拓地という、何もかもが不足していて、外部からの助けも望めない環境の中ではペットを飼うことですら大きな贅沢であり、時には非情な決断が必要になるのです。
開拓地の物語には明るさと希望を強調したものもありますが、この物語は経済的以上に、物質的にも貧しい社会というものの負の一面をはっきりと描写している点が印象的です。貧しい社会の中では、ペットと人間の関係も「わんだふる」なものにはなり得ないのですね。
PS: アニメ版の「子鹿物語」は1983年の作品で、先に触れたようにNHK総合での放送でした。でも児童文学のアニメ化でこのぐらいの年代の作品、ということならフジテレビでの放送と間違えるというのはすごくありそうなことで、理事長が間違えるのも無理はないですね。というか、理事長はちゃんと作品の内容を把握しているんだなあ。
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