午前10時の映画祭で「妖星ゴラス」を観た(江頭教授)
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午前10時の映画祭については先の記事でも紹介しました。これは名作映画を再上映するという企画で、その一つとして「妖星ゴラス」が劇場公開される、とのこと。私はこの「妖星ゴラス」という映画が大好きなので、以前に書いた「妖星ゴラス」の感想を再掲しつつ紹介したという次第です。
さて、新年に入って早々、1月3日に上映開始となった「妖星ゴラス」を観てきた、というのが今回の内容です。
映画「妖星ゴラス」の内容は前回紹介した通り、外宇宙から太陽系に侵入してきた天体「ゴラス」が地球と衝突する軌道にあることが分かる、というストーリー。ゴラスの質量は地球の6000倍もあり、衝突すれば地球は消滅。計算上もっとも離れた軌道を通過した場合でも水や空気をゴラスに奪われ、当然人類は滅亡するというのです。
私が今回、とくに気になったシーンについて紹介しましょう。
「ゴラス」との衝突から地球と人類を守るために活動を開始した科学者たち。かれらは自分達の働きかけに対して腰の重い政治家や役人達にもどかしい思いをつのらせています。そんななか、官庁巡りから帰るタクシーの中で、かれらは運転手とこんな会話をするのです。
時に運転手さん、あんた方はゴラスが来たらどうするね。
ゴラス、ああ、流れ星のことですか。なーに、お客さん。星が衝突するなんて話は大昔から何回もあってさ、まだ一度だってぶつかった試しはねえんでさ。
しかし、新聞やラジオでは…
ありゃ騒ぐのが商売ですよ。
世界中の学者が心配しているんだよ。
そりゃ、学者の理屈から割り出すと衝突することになるんでしょうがね。そう理屈通りには行きやせんよ。また、行ってもらっちゃ困りますがね。
さて、このシーンのタクシー運転手は「地球に危機が迫っているという状況に対して、無関心な一般市民」の代表として描かれていることは明かでしょう。実際、この後「人間はいつの時代にもただ目先のことに追われて生きてくようにできているらしいね。」というセリフが続きます。
以前、この映画を観た私、特に最初にTV放映でみた小学生くらいの私は、まさに制作者の意図通りにこのタクシー運転手の態度に憤ったものでした。それに対して危機を正しく認識して人類のために努力する科学者達の崇高さを見よ、といったところでしょうか。
しかし、今見直してみると少し違った印象をもつのです。何というか、このタクシーの運転手さんの常識に基づいた考え方にある種の「知恵」とでもいうべきものを感じるのです。
(映画「妖星ゴラス」のタクシー運転手との会話のシーン。運転手さんが実に良い味を出しています。)
果たして「ゴラスが地球と衝突する」という計算はどのくらい確実だったのでしょうか?
天体の運動はかなり精度高く計算が可能な現象ですが、それは長い期間の正確な観測データが得られる場合のこと。外宇宙から太陽系に侵入してきて発見からあまり時間も経っていない惑星(というか矮星)の軌道計算の精度には大きな誤差があるのかも知れません。実際、映画の中でも衝突するか、近くをすり抜けるか、計算に幅があることが匂わされています。
もしかすると、ゴラスの軌道計算には見積以上の誤差があり、ゴラスの通過点は実際には計算より地球から離れた地点だったのかも知れません。国連を中心として世界が協力したあのプロジェクト(詳細は伏せておきましょう。以前の記事の後半にはそのネタバレがあります。)も実は不要だったのかも。
そして、もしそうなら科学者達、そして彼らに説得された政治家や官僚達も、そして(明確な描写はありませんが)多大な苦労を強いられたであろう、タクシー運転手のような一般市民達も、無駄な努力をした、ということなのかも知れません。
もちろん映画「妖星ゴラス」はフィクションなので、鑑賞している我々は科学者達の予測は的中していることを知っている、そういう立場で楽しむことができています。
とはいえ現実に「科学によって予見された危機」というものに接することとなった現在の私達にとって、科学が、というか科学という人間の営みが、そこまで全服の信頼を置けるものなのか。そんな疑問を感じてしまうのです。そのとき「科学の知見」に対する「常識の知恵」をどのように位置づければ良いのでしょうか。今回、映画「妖星ゴラス」をみて、そんな疑問を感じてしまったのでした。
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